成果物(一例)

観光マップ(宗教・文化・自然資源)

離島の観光化・文化資源の活用を目的として、資源情報を可視化しました。

※スマートフォンのGoogle Mapsなどでも利用可能です。


また活動資料の中に、地理院地図データがアップロードされています。

翌年度以降の観光事業や、子どもイベントなどへの活用が期待されます。

浦戸諸島資源目録

観光資源をタグ別に分類しました。これにより島間での宗教的共通性を把握することが可能です。


また、「観音」といった鍵語をソートすることによって、浦戸全体の観音像を検索することができます。

先述の観光マップと併用することによって、信仰を保有する方が旅行を楽しんだり、現地企業などが「浦戸観音霊場」といった仕掛けを行うことができると考えています。


浦戸諸島データはこちら

地域の歴史

碑文などから、地域の歴史を読み解くことも可能です。

また、このような情報から、他県とのつながりを見出すことも可能です。

特に災害伝承碑などの情報は、今後防災などへの活用も期待されます。

白石君廣造豪傑士也。常以富國強兵宣揚皇威為念。博捜殖産興業之法于海于陸施諸事業因以利世益民者極多事聞。
明治四十三年十一月朝廷賜藍綬褒章。其功狀曰資性豁達夙察商工業発達須交通利便。
明治五年移居陸前國石濱従運漕業。招徠往民造倉庫関東京三陸北海道間定期航路以計地方振興。投私貲修陸羽間道路以便貨物輸送販賣海産資地方供給改良鰹節製法。昂其聲價。結松島湾漁業組合薦其組頭解古來紛議圖魚族蕃息。奨牡蠣養殖且企遠洋漁業救漁民窮。
其佗輸入肥料奨勵蠶業改良米穀普及教育造學校基本財産等皆克至其力洵興公衆利益。成績著明仍賜勅定藍綬褒章以表彰。其善行嗚呼可謂榮矣。
君埼玉懸北葛飾郡行幸村千塚人清兵衛。君第二子也。母曰美代子。弘代元年十二月十四日生。幼有大志七歳喪怙恃年十八走横濱從英佛人學航海術屡往來北海道。

白石廣造は豪傑の人でした。常に「富國強兵、宣揚皇威」を信念としていました。
殖産興業の方法を海や陸に探し求め、たくさんの事業を施したため、その貢献は極めて多いことが伝わっています。

明治43年11月(旧暦10月21日)には、朝廷より藍綬褒章を賜りました。その功績状によれば、度量が広く、また商・工業発達のために航路の開発を志していたといいます。

明治5年には、陸前の国の石浜に2年間移住して、運送業につき、住民を呼び寄せ、倉庫を造り、関東京三陸北海道間の定期航路を開拓し、地方の振興をはかりました。
また私財を投じて、陸羽間(陸奥国と出羽国)の道路を整備し、貨物の輸送、海産物の販売、地方の供給を助けました。さらに鰹節の製法を改良なども行い、その評判がたかまり、ついには松島湾漁業組合を結成、組頭の職についた後には、古くからある紛議を解決したほか、魚類の繁殖を行うなどの功績もありました。

他にも牡蠣の養殖を薦めて、漁民の困窮を救ったほか、肥料の輸入、蚕業の推進、米殻の改良などを行い、教育を普及させ、学校の基本財産などを整え、公衆の利益のために尽力を注ぎました。
そして、このようなすばらしい実績となったために、天皇陛下から藍綬褒章を賜り、表彰されました。

廣造は埼玉懸北葛飾郡行幸村千塚(現在の埼玉県幸手市)に住んでいた清兵衛の第二子で、母は美代子という名前でした。幼くして大志を抱くも、7歳で頼りの家族を失い、18歳のときには横浜に行き、イギリス人やフランス人から航海術を学んで、たびたび北海道を行き来していました。

Kozo Shiraishi(白石廣造) was hero. He always had a belief in "National prosperity, Enhance the prestige of the Emperor". He sought out ways to promote industry by sea and land, and contributed to many businesses As a result, his contributions are reportedly quite numerous.

In November 1910, he was awarded the Medal with Blue Ribbon by the Imperial Court. According to certificate of merit, he was high caliber and aspired to develop sea routes for the sake of commercial and industrial development.

In 1872, he moved to Ishihama in Rikuzen Province for two years to work in the transportation business, bringing in residents, building warehouses, and pioneering regular shipping routes between Tokyo, Sanriku, and Hokkaido to promote the region.

He also spent his own money to build a road between Mutsunokuni(陸奥国) and Dewanokuni(出羽国) to help transport cargo, sell seafood, and supply the region. Further, he improved the manufacturing process for dried bonito flakes, and his reputation grew so great that he finally formed the Matsushima Bay Fisheries Association and became the head of the union, resolving old disputes and breeding fish.

Likewise, he recommended oyster farming to save the fishermen from poverty, imported fertilizer, promoted the sericulture industry, improved rice hulls, spread education, prepared basic property for schools, etc., for the benefit of the public.

As a result, he was awarded the Medal with Blue Ribbon by His Majesty the Emperor for such a wonderful achievement.

Kozo Shiraishi was the second child of Seibei, who lived in Gyoko-mura Senzuka, Kitakushika-gun, Saitama Prefecture (present-day Satte City, Saitama Prefecture), and his mother's name is Miyoko. He had ambitions at an early age, but at the age of seven he lost his dependable family. After that, at the age of 18, he went to Yokohama, where he learned to sail from the Englishman and the Frenchman, and traveled often to and from Hokkaido.


【 ゆかりの地 】

宮城県塩釜市、埼玉県幸手市、神奈川県横浜市、北海道千島列島

陸羽(青森県、秋田県、岩手県、山形県、福島県)


【 功績 】

航路(道路)の開拓・整備、遠洋漁業(明治29年~)、造船所の設立、漁業組合の結成

鰹節製法の改良、米殻の改良、牡蠣の養殖、肥料の輸入、蚕業の推進、教育の普及


【 所有船 】

開盛丸など四隻


【関連資料】

武田仁恕編『明治国民善行表彰録』(博文館, 大正1年)271頁

 「(第六六〇號)宮城懸宮城郡浦戸村 従八位 白石廣造」部分

東宮行啓記念宮城県写真帖(宮城県、明治41年)31頁